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きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

矢野絢也の疑惑・暗躍

2006年4月27日 17:22:28
 矢野絢也公明党元委員長は、総額12億円にも上る金銭疑惑、「明電工疑惑」が発覚し、議員辞職。 資産家でもないのに、なぜか総資産10億円とも報じられた、腐敗政治家の代名詞だ。
 党を離れた後は、文藝春秋に寄せた「デマ手記」で、裏から創価学会公明党を攻撃。「手記」について、地元の幹部に「謝罪」しながらも「連載」は続けるという“荒技”をやってのけたw
 2005年5月に改めて学会側に「謝罪」「手記は書いたこと自体が間違い」「政治評論家も辞める」などいって、仲間のふりをしながら、再び内部から問題を引き起こすという、さらなる“荒技”をやってのけたw
 こんな男でも、「政治評論家」としてTVでも重宝され、右系、左系の報道番組を問わず、たーまに出演しては、モソモソしゃべってた。今思うと、「反学会の評論家」という肩書きに、マスコミも「中立」として“淡い期待”をしていたかと思うと……、イタタッw
 公明党は、貴様の欲と見栄を満たすためにあるのではない!! もう顔も見せるな、矢野!!

辞任の引き金となった“明電工疑惑”(昭和63年12月)
『創価新報』2005年9月21日付

自宅で2億円もの大金を授受――
矢野絢也公明党元委員長の“灰色の幕引き”

「明電工事件」とは

 政治家と株をめぐる疑惑が噴出し、政界・財界を揺るがした「明電工事件」――。
 それは、節電装置メーカー「明電工」の実質的オーナーである中瀬古功氏が、株の「仕手戦」の渦中で行なった、総額21億円の脱税事件のことである。
 「仕手戦」とは、ごく一部の人間が特定の銘柄の株を大量に買うことで市場をあおり、株価が上がった段階で一斉に売り抜けるという株価操作の取引をいう。 中瀬古氏は大掛かりな株の売買で得た巨額の売却益を脱税したことが摘発され、1988年(昭和63年)6月に逮捕。
 89年(平成元年)5月には懲役3年、罰金4億円の実刑判決を受けて服役した。
 この「明電工事件」の捜査の過程で、多数の政治家との株取引や献金疑惑が浮かび上がってきたが、その相手の一人に、あろうことか公明党の矢野絢也元委員長の名前も取り沙汰されたのである。これが彼の政治生命に終止符を打つきっかけなった、いわゆる“明電工疑惑”である。

 株取引に「秘書」が関与?

 「明電工10億円株取引の名義人 公明党委員長秘書の名前も」――これは「朝日新聞」(88年12月9日付)の夕刊一面に躍った見出しである。
 同紙は、中瀬古氏が逮捕される前年の87年(昭和62年)1月に行なった、総額約10億円の株取引に関して、株を購入した名義人の中に、矢野元委員長の「第1秘書」「第2秘書」「元第1秘書」の名前があることをスクープした。
 これに対して元委員長は同9日、記者会見を行い全面否定。自分や秘書には直接の関与はないとしたものの、「ある人物が、中瀬古氏に株の割り当てのあっせんを頼まれ、前から面識のある秘書二人をリストに入れた」と弁明した。
 しかし、こんな話が本当にあり得るのだろうか。
 「ある人物」とは、建設会社の相談役であるが、そのような人物が、国会議員の秘書の名前を、無断で使うなどということは考えられない。そもそも、議員本人が何らかの形で、10億円の株取引に関係していなければ、秘書の名前など出てくるわけなかろう。
 実際に、名前を使われたという秘書は、当時、矢野元委員長から「お前には関係ない。心配することはない」と言われており、元委員長自身が背後で取引に関与していたであろうことを、如実に物語っているのである。

告訴は“パフォーマンス”

 矢野元委員長は最初のうちは、あくまで強気の姿勢だった。
 記者会見の翌10日には、「虚偽の内容を公表した」として、名誉毀損罪で朝日新聞社を相手に刑事告訴。ところが、その姿勢も長くは続かなかった。
 まず、記者会見で「民事訴訟も起こす」と息巻いていたものの、奇妙なことに、いつまでたっても提訴には至らなかった。
 また、告訴状の方も「内容、書類が不十分」として不受理とされた揚げ句、89年(平成元年)3月23日には、一方的に告訴を取り下げてしまったのである。
 これでは、“やはり彼自身が胡散臭い株取引に関与していたのではないか”という疑惑が深まるだけであった。刑事告訴も、単なる急場しのぎの“パフォーマンス”であったと批判されてもやむを得まい。

「立党精神」忘れた所業

 そればかりではない。10億円の株取引を全面否定した記者会見から3日と経たないうちに、さらに致命的な“疑惑”も浮かび上がった。
 12月12日、再び記者会見を行い、明電工関連の株取引に絡み87年5月末か6月始めころに、自宅で2億円もの大金を渡したことを自ら認めたのである。 その大要は、以下の通りだ。
 1.資金繰りに困った明電工幹部から、矢野元委員長の元秘書に対して2億円融資の依頼があった。
 2.元秘書に「担保さえ確かなら」と口添えした。
 3.2億円を一時、自宅で預かり、明電工側に引き渡した。
 それにしてもなぜ、このタイミングでこんなことを言い出したのだろうか。
 当時の報道では、「矢野氏自身が株取引の当事者だったのではないか、との疑惑がささやかれていることに対し、『先手を打って』否定したもの」『朝日新聞』12月13日付)と評されている。
 この記者会見の中では、自分の株売買ではなく、「私を通過しての融資」であることを盛んに強調していた。ところが、これも容易には信じがたい。
 だいたい、他人である元秘書の、しかも2億円もの大金を預かって、自宅で授受するなどということ自体、誰にも想像のつかない話だ。それだけでも、「大衆とともに」の立党精神や、庶民感覚とは完全にかけ離れた、看過できぬ所業であると言わざるを得ない。
 しかも、実際に2億円を受け取った明電工側の幹部は「矢野委員長との株売買」だったと明確に反論しているのである。
 それでも“融資の仲介”だと言い張るのであれば、念書や現金の預かり証など、「融資の仲介」だったことを証明する書類は存在するのか、提示すべきなのである。

迷惑被ったのは「支持者」

 そして決定的だったのが、89年5月9日に公になった「明電工関連株をめぐる2億円授受は、矢野委員長本人との取引だった」という、中瀬古氏本人の証言である。
 先の明電工幹部の発言とも一致し、世論の追求も一層、厳しいものとなった。
 この“中瀬古証言”に対して元委員長は「事実無根」「デッチ上げ」「憶測」「虚言症」などと口汚くののしったが、これも結局、口先だけ。やはり、訴訟を起こして真偽を明らかにするという態度に出ることはなかった。
 そして5月17日、他の議員の不祥事についての責任を取る形で委員長を辞任。自らの“明電工疑惑”については、その責任を明らかにしないまま“灰色の幕引き”となったのである。
 「清潔」を信条としてきた公明党にとって、党の委員長たる人物が、カネや株の問題で騒がれるということは、空前の衝撃的な出来事だった。どれほど党の名前が汚されたことか。
 その後の選挙戦へのダメージも尋常なものではなかった。
 しかし彼は、これできっぱりと議員を辞めるわけでもなく、次の総選挙(90年2月)にも、のうのうと出馬。そこで一番、迷惑を被ったのは、周囲の批判・非難の嵐に耐え抜いて、懸命に支援し続けた地元・東大阪の学会員である。
 “議員を辞めたら、お礼を言いに必ず支持者宅を回る”――そんな“口約束”も完全に反古され、引退するやいなや、関西の同志へは一言のお礼もないまま、東京へと去っていった。
 そして“政治評論家”なる肩書で、敵だか味方だか分からないような顔をしながら、言いたい放題のことを書いてきたのである。


矢野絢也公明党元委員長の暗躍
『創価新報』2005年10月5日

引退後、平成6年3月 事務所開きに“宗教弾圧議員”集める

 公明党の矢野絢也元委員長は、1988年(昭和63年)12月、自らの(総額12億円にも及ぶ)明電工スキャンダルが発覚し、その後、委員長を辞任。93年(平成5年)には政界を引退した。
 その彼が真っ先にしたことは、長年お世話になった党や支持者への恩返しではなく、まったくの裏切り行為であった。月刊「文藝春秋」誌上に「政界仕掛人極秘メモ全公開」なる“手記”を発表したのもそうだった(93年10月号~12月号、94年5月号~8月号)。
 後に彼は、“手記を書いたこと自体が間違い”と謝罪したが、ともあれこの“矢野手記”がもととなり、実に2年余りで、6人もの国会議員が計8回にわたって、宗教弾圧の国会質問を行なった。そして、こともあろうに、証人喚問要求まで突きつけられたのである。
 こうした政治謀略が続くさなかの94年(平成6年)3月4日、矢野元委員長は東京・麹町に事務所を開き、お披露目のパーティーを行なった。
 引退から1年足らず。政治家を辞めた男が、今更なぜ、「事務所」など開く必要があったのか。しかも「永田町」からほど近い場所に――。
 彼はマスコミの取材に対して、次のように答えている。
 「一体なにをやるのかと聞かれるが、何もいたしません。サロンというか、皆に気楽に来てもらう貸席業のオヤジですよ」
 それにしても、「貸席業のオヤジ」とは、白々しい。利敵行為ともいえる“手記”をわざわざ発表して、党や学会に迷惑をかけた揚げ句に開設した事務所である。“何もしない”はずなどなかろう。
 ちょうど時は、8会派連立の細川政権の末期。自民党が下野して8カ月もたった時期であり、社会党が連立離脱をちらつかせていた時分でもあった。
 実際に「政界再編に血が騒ぎ」(毎日新聞)、「仕掛け人・矢野氏が動く」(読売新聞)と、新聞各紙の見出しでも報じられた通り、その陰険で腹黒い策略はハナからミエミエだったのである。

四月会議員が続々と

 この事務所開きには、中曽根康弘、竹下登両元首相や、河野洋平自民党総裁(当時)、田辺誠社会党元委員長など、与野党の大物政治家たちが続々と詰めかけた。
 「地震の震源地は永田町から四谷にきた」(中曽根氏)
 「何をやらかすのかとのぞきに来た。相当な圧力になるだろう」(河野氏)
 「政界仕掛け人いまだ健在」(田辺氏)
 確かに、矢野元委員長の真意を象徴するかのような、「きな臭さ」(朝日新聞)が際立つ発言である。
 このような光景を目の当たりにして、「これだけ政界のワルばっかりが集まったのも久しぶり」と評したのは、誰あろう民社党元委員長の塚本三郎であった。塚本は、かつて国会の場で宗教弾圧を繰り返し、“証人喚問、証人喚問”と喚いて、憲政史上に大汚点を残した人物である。リクルート事件が発端となり、矢野元委員長と同時期に、やはり委員長を引責辞任していた。
 さらにこの席には驚くべきことに、前年10月と同年1月に“矢野手記”を使って国会質問を行い、証人喚問要求を行なった自民党の下稲葉耕吉参議院議員(当時)まで出席していたというのだ。
 彼は一体、どんなつもりで下稲葉議員を招いたというのか。自分の“手記”が引用され、学会攻撃に利用されていることに対して、きちんと反論したのか。
 この点を青年部の代表から追及された際に彼は、「していません」とアッサリ認めている。とんでもない話である。
 しかも、長年のゴルフ仲間でもある下稲葉議員、事務所開きの後も、性懲りもなく3回目の喚問要求を行なったのである。
 そればかりではない。創価学会批判を強める自民党議員」(産経新聞)――あの「四月会」の前身となった「憲法二十条を考える会」の面々も名を連ねていた。
 このような連中を一堂に集めておいて、「何もいたしません」とは片腹痛い。 ともあれ矢野元委員長は、学会攻撃の急先鋒たちに対して、破折するするわけでも糾弾するわけでもなく、仲良く“パーティー”に興じていた、というのが真実である。夫婦そろってへらへらと応対する姿が、厳然と報道で残されている。 これが不知恩の所業、いな、悪辣な謀略、策略でなくて、何であるというのであろうか。

「自社さ政権」の陰で

 その後も、同元委員長の暗躍は続く。
 事務所開きの翌4月には、社会党が政権を離脱し、少数与党の羽田連立内閣が発足。それから1カ月とたたない5月14日、彼は社会党の政策集団「デモクラッツ」の研修会にノコノコと出かけ、講演を行なっていた。
 そこで、あろうことか“社会党は自民党と大連立を組め”とぶちあげたというのである。公明がいまだ、政権与党の一角を担っている時に、だ。
 いやしくも党の委員長まで務めた男が、自分の出身政党が参画する政権を打倒せよと、他党に公然とハッパをかけるとは、どういう料簡か。
 その後、6月には羽田内閣が短命で総辞職。7月に入ると自民党、社会党、新党さきがけによる、いわゆる「自社さ政権」が発足した。「事務所開き」から、わずか4カ月後のことである。
 このころ、時をあわせるかのように結成されたのが、反学会勢力が集結した「四月会」であった。そして、国会の場においては、相変わらず“矢野手記”を用いた宗教弾圧の国会質問が幾度となく繰り返されていた。
 つまり、自社さ政権誕生の背後で蠢いていたのが四月会の勢力であり、裏で彼らとつながり、陰に陽にその動きを後押しし、党と学会を陥れた張本人こそ、矢野元委員長その人だったとしか言いようがない。
 ちなみに、この四月会に参画した多くの議員は、その後、学会に対して謝罪している。
 ともあれ、議員時代は、とかくカネの噂が絶えず、明電工スキャンダルを起こし、「資産10億円」(朝日新聞、93年6月14日付)などと書かれた彼を、皆が心配した。しかし恩を知らぬ彼がしでかしたことは、「背信行為」だったのである。


文藝春秋の“手記”について――
何度も「謝罪」を繰り返す矢野絢也公明党元委員長
『創価新報』2005年10月19日付

いまだに支持者への「報恩」らしき行動なし

 本紙8月3日付で詳細を報じた通り、公明党の矢野絢也元委員長は青年代表との面談(5月14日)の折に、月刊誌「文藝春秋」(1993年、94年)に掲載した手記について、「書いたこと自体が間違いであった」等と認め、学会に公式謝罪した。
 しかし彼の「謝罪」とは、果たして本物なのだろうか。「口先」だけの「パフォーマンス」ではないのか――。事実、彼はこれまでにも、手記に関して何度も「謝罪」してきたものの、到底、反省しているとは思えない言動を繰り返してきたのである。

“文春手記”掲載直後にお詫び

 矢野元委員長は1993年(平成5年)に政界を引退するや否や、「文藝春秋」10月号に「政界仕掛け人極秘メモ全公開」なる手記を掲載。あろうことか「(学会と公明党の関係について)政教一致というご批判をいただいているが、確かに状況を見てみると、そう言われても致し方ない」との、デタラメな記述をした。
 これは看過できない重大な誤りである。そもそも学会と公明党の関係が憲法上も、何ら問題のないことは、歴代の内閣法制局長官の国会答弁を引くまでもなく、自明の理であった。それを、いやしくも党の委員長まで務めた男が、あたかも問題があるかのように公言するとは言語道断。反学会勢力に対して、格好の攻撃材料を与えたにも等しい「背信行為」であった。
 実際に、“文春手記”が発表された翌10月には、彼のゴルフ仲間ともいわれる下稲葉耕吉参議院議員(当時)が、この手記を取り上げて、宗教弾圧の国会質問を行った。そして、証人喚問要求まで突き付けてきたのである。
 これに対して元委員長は、手記掲載直後の段階で、西口総関西長ら関西幹部に「本当に申し訳ない」「反省しております」等と詫びていた。
 しかし、それは「口先」だけであったようだ。彼は連載をやめるわけでもなく、誤っているそばから、文春に手記を書き続けていたのである(同年11月号、12月号)。
 さらに彼は、議員を辞めたにもかかわらず、94年(平成6年)3月には“サロン”なる事務所を開設。その事務所開きには、大物政治家のみならず、反学会勢力の面でまで招待していた。しかも、そこには国会質問を行った下稲葉議員の姿もあった。
 ところが元委員長は、自分の手記を悪用した同議員対して、何ら反論をすることがなかったのである。手記の件について本当に詫びているのであれば、それを利用して宗教弾圧を加えた人物を前にして、“何もしなかった”では済まされない。それどころか彼は、そのような輩とも、仲良くパーティーに興じていたというわけだ。
 なぜそのような連中を、わざわざ事務所開きに呼んだというのか。“反省の色”など、ハナから全くなく、むしろ別な意図を持っていたとしか言いようがない。

明電工疑惑についても陳謝

 この後も矢野元委員長は折あるごとに謝罪してきたが、今年も改めて支持者にお詫びした。西口総関西長、藤原関西長によると、彼は4月下旬に、手記の内容と、それが及ぼした影響について「結果的には私の責任です」「ご迷惑をおかけしたのは事実ですから、深く深くお詫び申しあげます」と謝罪した。
 さらに、“私の間違いでした”“当時は心理的に、おかしかった”と猛省するとともに、88年(昭和63年)12月に“明電工疑惑”で騒がれたことに言及し、この件についても陳謝したという。
 この“明電工疑惑”が、彼の委員長辞任(89年5月17日)の引き金となったわけだが、発覚当初から、さかんに週刊誌等でキャンペーンを張られた。
 「矢野・中瀬古コレクション報道の「真相」「サンデー毎日」88年12月18日号)
 「野党の富豪」矢野委員長のカネ・株・家。そしてウソ」(同89年1月1日号)
 「明電工関連株で矢野・公明党大ピンチ」「週刊朝日」88年12月23日号)
 「矢野公明党委員長の「三つのウソ」を糾す」(同12月30日号)
 彼の明電工スキャンダルのせいで、党の名前が汚されたことは言うまでもなく、後の選挙戦へのダメージも計り知れなかった。そして何より、一番迷惑を被ったのが、その非難の嵐に耐えながら、必死に支援活動をし抜いた学会員である。
 ともあれ、本年4月の「謝罪」は、4月には東京都議会議員選挙を控えていた時期でもあり、彼がどんな「誠意」「行動」を示すのかを、誰もが見守っていた。
 ところが彼は5月のゴールデンウィークを利用して、夫婦でノコノコと海外に出かけていたというのである。
 学会員が真剣に支援に奔走するなかで、一体どういうつもりだったのか。夫婦で連れでもあり、「遊び」だと思われても仕方のないことである。
 「お詫び」の言葉は、またしてもすぐに裏切られた形となってしまった。

“書いたこと自体が間違い”

 その後、元委員長の求めに応じて、5月14日には青年部代表との面談が持たれた。
 そこで彼はやはり反省の様子を見せ、「全国の学会員の皆様に多大なご迷惑をおかけし、心の底からおわびします」「(文春手記を)書いたこと自体が間違いでした」と謝罪。そして自ら進んで“謝罪文”にも署名し、「私のこれからの生き様を見ておってください」などと強調していたのである。
 さらに彼は、2日の同16日にも学会関係者に対して「お詫びしてすむ問題ではありませんが……」「私が悪かったです」と、重ねて平謝りした。
 これで矢野元委員長は、“文集手記”掲載後、都合10回以上にわたって「謝罪」したことになる。しかし、「私のこれからの生き様を見ておってください」とは言ったものの、彼の支持者への「報恩」らしき行動は、いまだこれっぽっちも見受けられていない。


“野党の富豪”と揶揄された矢野絢也公明党元委員長
「肩書」利用した評論家活動
『創価新報』2005年11月2日付

自ら進んで「評論家決別宣言」

 「辞めます」「辞めましょう、評論家を」――これは、公明党の矢野絢也元委員長が青年代表との面談(5月14日)の折に、自ら言い出した言葉である。
 彼は議員を引退する際にこう記者会見していた。
 「それにつけても、この長い間、不敏、不徳の自分でしたが、若輩のときから党の書記長、委員長の大任を頂戴し、皆様にかわいがって頂き誠に幸せな半生でした。心の底から感謝の気持ちを込めて厚く御礼申しあげます」
 「これからは、庶民の一人として、公明党のますますの発展と日本の政治の再生を願い、やさしく、人間らしく、つつましく生きてきたいと願っています」「公明新聞」93年2月4日付)
 この彼の言葉に照らして見れば、青年部に語った「評論家決別宣言」は至極当然のことであろう。
 そもそも、議員生活の大半を党幹部として過ごしてきた人物が、議員引退直後に「評論家」となったこと自体、異例だろう。公明党に限っていう話ではない。党首まで務めた人間が引退後、評論家となり、自分の出身の党を云々する――他党でも想像できるだろうか?
 彼は現職時代、彼自身の「不徳」のゆえ、“野党の富豪”と揶揄される始末だった。本来の地元である東大阪の豪邸、さらに東京・新宿の豪邸、議員の資産公開の際には「資産10億」と新聞に報じられていた。
 また、彼自身の「不徳」のゆえ、明電工疑惑が引き金となり、わずか2年半で、委員長を辞任せざるを得なかった。彼の委員長就任前後をはさんで行われた参院選で比較すると、公明党は130万票も減らしている。
 だからこそ、彼の「つつましく生きていきたい」という言葉は、支持者の誰もが“そうであってもらいたい”と感じた言葉だっただろう。

反逆者らの“喝采”の中で

 ところが彼が引退直後に始めたこと――それが、月刊誌「文藝春秋」への“手記”の発表(93年10月号~12月号、94年5月号~8月号)であり、「評論家・矢野絢也」としての仕事の始まりだった。
 当時の「文藝春秋」といえば、阿部日顕(92年2月号)をはじめ、藤原行正(同年11月号)や山崎正友(94年1、2月号)、段勲・乙骨正夫(同年10月号)といった退転・反逆の輩が、その誌上で公然と党や学会の批判を繰り広げていた。そこに“手記”を掲載したのである。
 しかもその内容は、公明党創価学会を攻撃しようとする悪意の輩が最も喜ぶものだった。これまでも報じてきた通りである。国会での証人喚問要求に幾度となく悪用され、あの山崎がデマ記事で10数カ所にわたって引用し、元委員長の「勇気」だと称えたのだ。
 さらに最近になっても共産党の機関紙「しんぶん赤旗」(03年11月12日付など)が、同手記の内容を取り沙汰するなど、いまだに宗教弾圧と謀略の“材料”とされているのである。その罪はあまりにも大きいと言わざるを得ない。
 要は、彼の「評論家」としての活動は、心血注いで党を支えた人々の“呆れと怒り”、そして、血眼になって党と学会の陥れを狙う人間たちの“喝采”のなかでスタートし、続けられてきたのである。

利敵行為でしかない評論も

 だいたい、なぜ彼が「政治評論家」などと名乗り得たのか――。
 彼は別段、政治を学問してきたわけではない。ただの「矢野絢也」という一人物であれば、世間の誰からも相手にされなかっただろう。
 あったのは、公明党書記長、委員長を長い間務めてきたという経歴であり肩書である。彼は、その経歴を支えてくれた大勢の人々の大恩を忘れて慢心し、逆に肩書を利用したのではないか。マスコミがその経歴をおもしろがって「評論家」たり得ただけではないか。
 はたして元委員長は、「つつましく生きる」という言葉を覆してまで「評論家」になり、何がしたかったのか。彼は件の“手記”の後も、雑誌などにコラムを持ったが、センセーショナルな見出しばかりが目立った。
 公明党との片肺飛行を選んで小渕首相は緊急入院」「永田町一刀両断」00年4月4日付)
 「すべての創価学会に告ぐ 『小沢新進党』と訣別せよ」「永田町裏ガイド」77)
 創価学会首脳が“爆弾発言”(同136)
 これでは、悪意の勢力に、またぞろ攻撃材料を与えているだけである。「矢野絢也」を知らない人から見れば、およそ、これが党の委員長まで務めた人物の発言とは思えないであろう。
 見出しばかりではない。
 彼は、自社さによる「四月会」政権成立前夜、下野していた当時の自民党に「村山さんが武村さんをかつぐくらいに成長したら本物だ」(同8)と、評論家として“エール”を送り続けていた。
 その後「四月会」政権が、宗教法人法“改革”案を持ち出し、党や学会への攻撃の意をむき出しにしていたときにも、「改正といってもまだ宗教法人法改正案の中身が出た論議ではない。中身なしで頭から賛成とか、反対とかは、問答無用の不毛な論議という感じがする」(同65)と、あえて“土俵に乗る”ように書いている。この状況下で出される「中身」が分からないような元委員長ではないし、もし分からないというなら、それこそ「政治評論家」の名が泣く。
 このような例は、挙げれば本当にきりがない。
 彼は「元委員長」という「立場」を、党のために活用するわけでも、支持者への恩返しのために使うわけでもなく、むしろ“背信行為”を続けてきたのである。
 これを忘恩、不知恩と言わずして何であろうか。
 今、自ら評論家を辞めた彼が、どのような形で支持者への恩返しの行動に出るのか、見物である。


 さぁ、誰のことでしょう?
 次の任用試験に出ますよ!('д')
 うそですよ。
裏切り者は何度でも裏切る
日蓮大聖人 釈尊が築いた和合僧団も 師子身中の虫を倒してこそ発展

官房長官!?

 佐藤 竹入の話が出たな。竹入と同じような立場の人間で、竹入より悪いやつがいるじゃないか。
 原田 そうだな。大臣になりたくてなりたくて、転げまわっていたやつだな(爆笑)。
 佐藤 それも官房長官を狙っていたという話だ(笑い)。
 青木 官房長官?
 森山 官房長官は、年間十数億円といわれる、あの有名な「官房機密費」を握れるからだよ。
 原田 その機密費を狙っていたわけだな!
 佐藤 卑しい、醜い、骨の髄まで腐りきった、銭ゲバ野郎のあいつらしいじゃないか(爆笑)。
 原田 バカバカしい!
 あんなやつが大臣なんかになったら、日本の恥だ。日本の国が潰れちゃうよ(爆笑)。
 佐藤 それにまた、バカづら下げて、海外に遊びに行くわ行くわ(笑い)。
 森山 海外に大金を隠してるんじゃないのか(大笑い)。
 佐藤 以前も、やつをよく知る人々が「化け猫、化け猫」とバカにして、ゲラゲラ笑っていたよ(爆笑)。
 森山 「悪太郎、悪太郎」と言っている人たちもいたな(大笑い)。
 佐藤 それに最近では、だんだん自分の正体がバレてきたものだから、あっちこっちに泣きついているようだぞ、あいつは(笑い)。
 森山 ところが、みんなが裏で舌を出している(笑い)。
 「あんな下劣な、下卑たやつ! さんざん人を騙し、利用しておいて、今ごろ何様のつもりだよ」と陰口を言い合い、大笑いしている(爆笑)。
 佐藤 その通りだ。著名な裁判官も“一度裏切った人間は、何度でも裏切る。信用できるわけがない”と喝破している。みなが正体を見破っている。
 実情を知らないのは、本人だけだ。おめでたいやつだよ(大笑い)。

生きながら地獄

 原田 だいたい、あんなやつ、社会的影響力なんか、もう全然ないじゃないか。いくら大物ぶったって、本性が畜生だから、本当に慕ってくれる手下も仲間もいない(大笑い)。
 青木 御聖訓に「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがわず」と仰せであられる。
 信心をなくし、根本の福運が尽きたら、何をやろうが、あがこうが、全部、失敗、大敗北だ。提婆達多と同じく、生きながら奈落の底に沈んでいく。
 秋谷 仏意仏勅の学会を陥れた輩は必ず滅びる。信心も性根も腐りきっているから、それが分からない。仏罰の恐ろしさが分からない。
 この先、どんな末路をたどろうが、すべて自分の責任だ。
『聖教新聞』11月7日付4面



公明新聞:2006年4月7日付

続 記者座談会 政治家改革の視点 20

その場しのぎのウソ重ね
矢野元委員長「大阪に帰る」発言もデタラメ


豪邸騒ぎで口裏合わせを依頼

A 今回も矢野元委員長の「ウソ」を暴いていきたい。
C 彼が私腹を肥やし、巨額な財産を貯め込んできたのは周知の事実だ。しかし、皆に問い詰められるたびにウソをついてごまかしてきた。
D 東大阪市本町に1973年8月、当時の金額で5600万円もする豪邸を建てた時もそうだった。今から30年以上も前の5600万円だ。
B 彼は衆院議員になってわずか6年目でこの豪邸を手にした。それに対して地元の共産党が公明党の書記長が豪邸を購入”などと揶揄し、資金の出所について騒ぎ立てた。
D 困った彼は、地元の後援会副会長だった川脇彦治郎さんにウソの口裏合わせを依頼。“あんたから資金を借りて建てたことにしておいてくれ”と懇願した。
C それで実際に“川脇さんから借りてたんや。なにもやましいことはありません”などと表向きに説明を行ったというんだから、ウソつき以外の何物でもない。
B 口から出任せの言い訳は、東京・新宿区の二十騎町に84年6月、豪邸を建てた時もそうだ。
A 同僚議員には“大阪の家を売って建てた”とか、“親父の土地を売ってカネができた”などと説明していた。
D この豪邸が写真週刊誌(88年12月19日号)で「お値段は何と8億円!」などと叩かれた時には、「自分と妻、母の貯金をはたき、株を売り、銀行から借金して買ったもの」とコメントしている。
B “土地や家を売った”という話と、“株を売った。銀行から借金した”では中身が全然違うじゃないか。彼の説明はいつもその場その場でコロコロ変わるんだ。
A 93年6月に国会議員の資産公開が初めて行われ、彼の異常なまでの蓄財が公になった時も聞き苦しい言い訳を試みていた。
D 「矢野絢也議員、資産10億円」と朝日新聞(93年6月14日付夕刊、大阪版)に報道され、大騒ぎになった時だな。
C その通り。その時は、「たまたま買った場所が、その後、地価が上がっただけ。資産家という意識はない」などと言い訳している。
B 何を言っているんだ。彼は資産家そのものじゃないか。
 議員引退後も東京・新宿区の市谷甲良町に新豪邸を建てたり、超高級車を乗り回したりと蓄財・散財のかぎりを尽くしている。

支持者を裏切る忘恩の虚飾人生

C 彼は「議員を辞めたら大阪に帰る」とも言っていたじゃないか。
B 「お世話になった皆さまを自転車で回る」とも言った。しかし、そんな彼の姿を地元・関西の支持者は誰も見ていないよ。
A 自転車で回った形跡などないばかりか、東京・新宿でぬくぬくと豪邸暮らし。99年1月には東大阪の家を売り払ってしまった。
D これが9回もの総選挙で彼を献身的に応援し、守り支えてくださった関西の支持者に対する仕打ちか。恩知らずにもほどがある。
A 昨年(2005年)5月には、支持団体の青年部代表に謝罪し、「これからの生き様を見ておってください」などと言ったそうだが、それもまったくのウソだった。
C その後、東京都議選、衆院選があったにもかかわらず、彼が支援活動している姿など誰も見ていない。
B 何が「見ておってください」だ。結局、彼はその場しのぎのウソを重ね、今に至っているわけだ。
D どんなに多くのカネや財産があろうが、しょせん忘恩の虚飾人生だ。蓄財の亡者だ。このままでは惨めな晩年だな。


公明新聞:2006年4月11日付

続 記者座談会 政治家改革の視点 21

“庶民の代表”は名ばかりの蓄財
矢野元委員長 二つの豪邸持ち、別荘まで


B 民主党の偽メール事件でも明らかになったが、国民は今まで以上に、政治家の資質について、厳しい目で見ているな。
A 国民は切に政治家自身の改革を願っているということだ。
C この記者座談会にはさまざまな反響が寄せられている。「議員の実態をえぐり出して後世の戒めとすることが大事」という声も頂いている。
D まったくの正論だ。どんどんやっていこう!
B 国民本位の政治を願う支持者の皆さまのご支援あっての公明党であり、議員一人ひとりだ。
C だからこそ、議員自身が誰よりも一番真剣に戦わなきゃいけないんじゃないか?
D 当然だ。それなのに矢野元委員長は、調べれば調べるほど醜い実態が明るみになるばかりだ。

歳費中心ではあり得ぬ資産10億

A 彼は公明党の幹部として、“庶民の代表”を名乗っていた。にもかかわらず、国会議員在職中に東京と大阪に豪邸、三重の伊勢志摩に別荘まで構えた。
C こんな資産持ちの“庶民”がどこにいるんだ。結局、みんなをだましていたんだな。
D 引退直前の1993年6月に初めて国会議員の資産が公開されたが、その時には、余りの蓄財ぶりに皆が驚いたんだ。
A 朝日新聞では、東大阪市の高級住宅地に敷地面積約560平方メートルの「邸宅」、東京・新宿に250平方メートルの土地に「屋敷」を構え、奈良県生駒市の800平方メートル余の「さら地」を所有していると報じていた。
B その記事は、それらの時価を合計して、「三軒長家から出発 30年で資産10億円」との大見出しがついて波紋を呼んだな。
D しかも、新宿の豪邸を購入して10年しか経っていないのに「借入金」はゼロだった。長期ローンを組んで、何とか家を購入する一般庶民と大違いだ。
A 彼はコメントで「政治活動は歳費中心でやってきた」といっていたが、歳費だけで、これだけの蓄財は到底考えられない。
D その通りだ。彼が67(昭和42)年に衆院議員に初当選してから、資産公開のあった93年6月までに支給された歳費と期末手当の総額を計算してみた。
B いったい、いくらになるんだ。
A 額面で3億5000万円余りだ。確かに大金だが、税金や社会保険料、そしてもろもろの生活費などを差し引いて考えたら、東京と大阪の一等地に豪邸を二つ同時に持てるはずがない。
C よっぽど特別な錬金術でもなければ無理だよ。

ファミリーで別荘を転売

B そういえば、その資産公開では別荘にはまったく触れていなかったな。
A そうだ。伊勢志摩の賢島の別荘は72年7月に建てられ、土地面積は約300坪もあったが、資産公開の時にはすでに、彼の元公設第一秘書A氏の関連会社の名義になっていた。
B だから資産公開で出てこなかったのか。
A だが、彼とこの別荘の縁がまったく切れたわけじゃなかったんだ。
C どういうことなんだ。
A 実は、この別荘は、彼が議員を引退した翌年の94年、彼の息子の手に渡っていたんだ。それに2002年には、彼の息子から彼と関係の深いB氏の関連企業に売却されていた。
D 『矢野元委員長』『元秘書A氏』『息子』『関係の深いB氏』という、元委員長と切っても切り離せない“矢野ファミリー”の中でコロコロと転売されていたということだ。
B それで、売ったはずの別荘と目と鼻の先にある名門ゴルフ場で、彼がしばしばプレーしていたとの目撃証言も寄せられていたんだな。
C 支持者の奮闘の陰でコッソリ手に入れた別荘を息子に継がせ、最終的にはカネに換えたのか。まさに家族ぐるみ、「一族主義」の象徴だな。


公明新聞:2006年4月14日付
続 記者座談会 政治家改革の視点 22

豪邸、高級ワイン、ゴルフ三昧
矢野元委員長 マスコミからも厳しく糾弾


3階建てのエレベーター付き

A 矢野元委員長は議員を辞めて約4年後の1997年、今も住んでいる東京・新宿区の市谷甲良町に邸宅を構えた。
B このあたりは、東京都心部でも指折りの閑静な住宅地だ。
D 彼の住まいは約110坪、3階建てでエレベーターが付いた立派な屋敷だ。その周辺でも一際目立つ、文字通りの大豪邸だ。
C エレベーター付きとは豪勢だな。彼はここに移る前、すぐ近くの同区二十騎町の豪邸にいた。
B 二十騎町の豪邸といえば、マスコミからも随分、たたかれた。
D 彼が委員長になったころ、ある総合雑誌で公明党の国会議員で、地元の他に、東京に家を持っているのは矢野だけ」などと皮肉られた。
A 写真週刊誌にも、「お値段は何と8億円!」「いやでもその“金脈”が気になるところ」と、その豪邸ぶりが騒がれた。
B また、カネ、カネ、カネだ! 皆、もうウンザリだったな! 本当に嫌な思いをさせられた。
D 大きな写真でセンセーショナルに伝えられたんだ。庶民の党の委員長がなぜ?と党員・支持者が、どれほど困惑したことか。
A その時、彼は購入資金について、自身を含めた家族の貯金や銀行融資とともに“株で買った”と釈明していた。
C やっぱり“株”で儲けていたのか(笑い)。
A だが同僚議員には、まったく違う言い訳をしていた。“大阪の家を売った”“親父の土地を売った”などと言っていたようだ。
D 彼が東大阪の家を売ったのは二十騎町の家を持ってから15年も後のこと。同僚議員にした説明と違っているよ。
A 今住んでいる市谷甲良町の豪邸に移ってからも二十騎町の家は2004年までは所有していた。そして、今の家を持った時には、彼はまだ東大阪の家も所有していた。
B つまり、東大阪と新宿の2カ所、合計3カ所もの豪邸のオーナーになっていた時期があったということか。
C まったく信じられない金持ちだな。

最高級のスポーツクラブ通いも

B 矢野元委員長の贅沢三昧な暮らしぶりは目に余ったというじゃないか。
A 彼の一流ブランド品好みは有名だ。超一流の料亭やレストランにも足しげく通っていた。
C ワインも買い漁っていたようだ。「自宅にもワインセラーがあり、垂涎の高級ワインが保存されている」とも指摘されている。
D ゴルフにも熱を上げていた。複数の名門ゴルフ場の会員権を持っていたことは有名だが、実際に各地でしばしばゴルフに興じていた。
A 一緒にプレーしたことのある人は「平日も練習し週1回はラウンドしないと出せない程のスコアだった」と驚いていたな。
D おまけに、都心の超一流ホテルにある最高級のスポーツ施設もある会員制クラブにも日常的に出かけていた。
A スポーツクラブがかなり一般的になってきた現在でも、ここは入会時に305万円、年会費は27万7200円、そのうえ利用ごとに料金がかかる。庶民には“雲の上”の施設だよ。
C 豪邸、高級ワイン、ゴルフ、スポーツクラブ……。何とも豪勢だな。これだけの散財をして、なおかつ莫大な資産を形成していたわけだ。そりゃマスコミに『野党の富豪』矢野委員長のカネ・株・家そしてウソ」(1989年1月1日号「サンデー毎日」)と訝しがられて当然だ。
B 庶民の党である公明党の議員、それもトップを務めた人間が贅沢三昧に走ったら、支持者への裏切りではないか。
C 将来にわたって、党名の通り不正や隠し立てのない党とするため、過去の悪徳議員を反面教師にして、互いに戒め合っていこう。



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